ウェブ上の「分人」を生きる(普通の個人が、ブログのある毎日を送り続ける、ということ)

こんにちは。「単純作業に心を込めて」彩郎です。

前回は、「彩郎」という人格がウェブ上に誕生し、育ってきた経緯を紹介しました。この連載のテーマは、「普通の個人が、ブログのある毎日を送り続ける、ということ」なのですが、私にとって、この「彩郎」は、ブログのある毎日を送り続けてきたことから生まれた、具体的なかたちあるものです。

「彩郎」は、どう育ってきたのか?(普通の個人が、ブログのある毎日を送り続ける、ということ)

ブログやTwitterなどを続けているうちに、何らかのウェブ上の人格を持つようになった人は、おそらく、それなりの数にのぼるのではないかと思います。今や、実名のリアル人格から切り離されたウェブ上の人格は、それほど珍しくもないありふれた現象です。

ですが、そんなありふれたウェブ上の人格に、「分人」という概念からの光を当ててみると、大きな可能性を発揮します。

今回は、作家の平野啓一郎さんが提唱する「分人」及び「分人主義」を紹介しながら、ウェブ上の「分人」を生きることについて考えてみます。

1.「分人」概念と「分人主義」のこと

「分人(dividual)」とは、作家の平野啓一郎さんが提唱する概念です。小説『ドーン』で登場し、新書『私とは何か 「個人」から「分人」へ』で丁寧に解き明かされました。

「分人(dividual)」は、「個人(individual)」に対応する概念です。「個人(individual)」から、否定の意味を持つ接頭語「in」を取り除くことで、「個人」の語源である「分けられない」という意味を否定して、人間を「分けられる」存在と捉えます。「分人」は、ひとつの人間観です。

本書では、以上のような問題を考えるために、「分人(dividual)」という新しい単位を導入する。否定の接頭辞 in を取ってしまい、人間を「分けられる」存在と見なすのである。

location 13817 「分人」シリーズ合本版『私とは何か』

このような人間観に立ち、個人を分人の集合体と捉える考え方を、平野さんは「分人主義」と呼んでいます。

人間の体はひとつしかないし、それは分けようがないけど、実際には、接する相手次第で、僕たちには色んな自分がいる。今日ちゃんと向かい合ってる時の僕、両親と向かい合ってる時の僕、NASAでノノと向かい合ってる時の僕、室長と向かい合ってる時の僕、……相手とうまくやろうと思えば、どうしても変わってこざるを得ない。その現象を、個人individualが、分人化dividualizeされるって言うんだ。で、そのそれぞれの僕が分人dividual。個人は、だから、分人の集合なんだよ。──そういう考え方を分人主義dividualismって呼んでる。」

location 8505 「分人」シリーズ合本版『ドーン』

「分人」概念や「分人主義」という考え方には、いくつかのポイントがあります。以下、私なりに大切だと考えるポイントを3つ紹介しますが、興味を持った方は、平野さんによる一連の著作のいずれかを読んでみてください。

(説明のわかりやすさなら、『私とは何か 「個人」から「分人」へ』がおすすめです。「分人主義」という思想や、「分人」概念の基本的なところは、『ドーン』を読むとイメージをつかめると思います。生きづらさを抱えているときに、「分人」という考え方がどのような解決になるか(もっといえば、「分人」という考え方が自殺問題に対してどのような解答を与えるのか)については、『空白を満たしなさい』を読むとよく分かります。さらに、『「分人」シリーズ合本版』なら、3冊全部まとめて入ってます。)

平野啓一郎「分人」シリーズ合本版:『空白を満たしなさい』『ドーン』『私とは何か―「個人」から「分人」へ』

『私とは何か 「個人」から「分人」へ (講談社現代新書) 』

(1) 「分人」は、対象との反復継続的な関係によって育ち、自然と、協同的に現れる

「分人」は、対人関係や対象との関係ごとの、様々な自分です。

対人関係や対象の関係以前に、「本当の自分」という本質が存在する、という神話を退け、対人関係ごとに見せる複数の顔のすべてを、「本当の自分」と捉えます。

すべての間違いの元は、唯一無二の「本当の自分」という神話である。

そこで、こう考えてみよう。たった一つの「本当の自分」など存在しない。裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である。

location 13813 「分人」シリーズ合本版『私とは何か』

分人とは、対人関係ごとの様々な自分のことである。

location 13819 「分人」シリーズ合本版『私とは何か』

対象は、人でなくても構いません。

あと、キャラと違うのは、人がいなくてもいいってこと。誰もいない海とか山とか、そういう外界からの影響で、別の場所にいるときとは違った自分がふと生まれてくる。それもディヴだって考えられてる。

location 8521 「分人」シリーズ合本版『ドーン』

「分人」は、あらかじめ存在するのではなく、対象との継続的な関係から、徐々に分化して育ちます。

分人は、相手との反復的なコミュニケーションを通じて、自分の中に形成されてゆく、パターンとしての人格である。必ずしも直接会う人だけでなく、ネットでのみ交流する人も含まれるし、小説や音楽といった芸術、自然の風景など、人間以外の対象や環境も分人化を促す要因となり得る。

location 13820 「分人」シリーズ合本版『私とは何か』

分人は、相手との関係から、自然と生じるものです。いわゆる「キャラ」や「ペルソナ」のような、使い分けるものではありません。

「それは、……わたしたちが子供の頃に、〝キャラ〟とか言ってた話? 相手によってキャラを使い分けるとか、言ってたけど。」

location 8513 「分人」シリーズ合本版『ドーン』

ディヴは、キャラみたいに操作的operationalじゃなくて、向かい合った相手との協同的cooperativeなものだって言われてるんだよ。

location 8519 「分人」シリーズ合本版『ドーン』

(2) 人の個性や人格は、「分人」の集合体やネットワークとして理解できる

「分人主義」は、どこかに唯一無二の「本当の自分」がある、というモデルを否定します。「本当の自分」がキャラを演じるとか、「本当の自分」が対人関係ごとに仮面をかぶる、とか、そういう考え方ではないのです。

では、「分人主義」は、人の個性や人格を、どのように把握するのでしょうか。それは、「分人の集合体」「分人のネットワーク」として、です。

関わる人だとか、関わる物事だとかがあって、初めて分化する、自分の中のある一面で、そういう分人が、中心もなくネットワーク化されているのが個人だっていう考え方だよ。本当の自分なんてない代わりに、色んな自分をずっと駆け巡りながらものを考えてるっていう発想なんだ。

location 8521 「分人」シリーズ合本版『ドーン』

このネットワークには、中心がありません。

一人の人間は、複数の分人のネットワークであり、そこには「本当の自分」という中心はない。

location 13820 「分人」シリーズ合本版『私とは何か』

でも、このネットワークは、相互にリンクされ、ひとつの人格にまとまっています。多重人格ではありません。

それより、多重人格は、人格と人格とがリンクされてないでしょう? さっきまでの自分が思い出せなかったり。ディヴィジュアルはもちろん、そんなことはないから、そこが違いかな。ただその辺は、最終的に、多分人主義multidividualismか、分人多元主義dividual pluralismかっていうので、また、色々と議論がややこしいんだけど。……

location 8532 「分人」シリーズ合本版『ドーン』

(3) 「分人」という考え方は、人間関係の分割可能/分割不可能に、興味深い線を引く

「分人」という考え方は、ひとりの人間を、「分けられれるもの」と考え、分割します。「個人」という人間観が、ひとりの人間を「分けられないもの」と考えるのとは対照的です。

  • 分人:ひとりの人間は、分けられる
  • 個人:ひとりの人間は、分けられない

しかし、分人は、他者との関係ごとに生じます。ひとりの人間を構成する個々の分人は、それぞれが、他者との協同的なものです。だから、他者との関係においては、むしろ分けられません。

反対に、他者との関係においては、個人という人間観のほうが、分けられるものと考えています。

つまり、

  • 分人:他者との関係は、分割できない
  • 個人:他者との関係は、分割できる

ということです。

この意味で、「分人」という考え方は、他者との関係においては、「個人」という考え方よりも、むしろ人間を個々に分断させない単位だ、といえます。

そして、分人 dividual は、他者との関係においては、むしろ分割不可能 individual である。もっと強い言葉で言い換えよう。個人は、人間を個々に分断する単位であり、個人主義はその思想である。分人は、人間を個々に分断させない単位であり、分人主義はその思想である。

location 15376 「分人」シリーズ合本版『私とは何か』

単位を小さくすることによって、きめ細やかな繫がりを発見させる思想である。

location 15379 「分人」シリーズ合本版『私とは何か』

2.ウェブ上の人格を、「分人」として理解する

さて、私の「彩郎」など、Twitterやブログに生まれ育つウェブ上の人格は、「分人」として理解できます。上に挙げたポイントに沿って、確認してみましょう。

(1) ウェブ上の人格は、対象との反復継続的な関係から、自然と、生まれ育つ

ウェブ上の人格は、どのように生まれ育つのでしょうか。

自分が作為的に生み出す、という側面もあります。たとえば私は、名前を決め、似顔絵アイコンを作り、こんなキャラクターにしたいなという方針を描き、「彩郎」という人格を生み出しました。大げさに言えば、創造主のようなものです。

でも、ウェブ上の人格は、これらを最初に決めるだけでは、本当の意味では生まれませんし、育ちもしません。その人格によって、何らかの対象との間に、反復継続的な関係を重ねることによってこそ、ウェブ上の人格は生まれ育ちます。たとえば、ブログやTwitterとの関係、テーマとの関係、読者との関係、知り合いになった具体的な誰かとの関係などです。

ウェブ上の人格の場合、これらの反復継続的な関係は、個々の投稿やつぶやきの形で蓄積されます。SNSの投稿やブログ記事は、基本的にはフローですが、ひとつの場所にストックされているので、ログとしてそれを遡ることができます。そこに、人格的な何かが生まれます。

いったんウェブ上の人格を生み出した後も、同じです。

ブログやTwitterにおいて、人はこうして生まれ育ったウェブ上の人格として、記事を書いたりTweetしたり考えたりします。でも、これは、意図的に演じているわけではありません。そのウェブ上の人格として考えたり書いたり読んだりすると、自然と、そうなるのです。

たとえば私の場合、ブログ「単純作業に心を込めて」に文章を書こうとすると、自然と、「彩郎」になります。「よし、今から「彩郎」を演じよう」とか、「さて、「彩郎」なら、このテーマについてどんなことを考えるだろうか」とかを考えるまでもなく、自然と、「彩郎」になります。Twitterでつぶやくときも同じです。ブログやTwitterやそのときやりとりしている具体的な誰かなど、対象との関係や対人関係で、自然と、協同的に、「彩郎」が生まれます。

このように、ウェブ上の人格は、生まれ育つ経緯でも、その都度の立ち現れ方でも、「分人」だといえます。

(2) ウェブ上の人格は、実名のリアル人格とリンクして、自分の個性の一部分を構成する

ウェブ上の人格は、実名のリアル人格に、何らかの影響を与えます。ウェブ上の人格が得た情報、学んだ知識、組み立てた思考が、実名のリアル人格に、いろいろな形で、影響をあたえるわけです。

たとえば私は今、実名のリアル人格においても、WorkFlowyをいろいろ愛用しています。家族との情報共有とか簡単なタスク管理とか日記とか読書メモとか、WorkFlowyなしの毎日は考えられません。では、このWorkFlowyを使い始めた最初の「分人」は誰かといえば、ウェブ上の人格である「彩郎」なわけです。ウェブ上の人格が、リアル人格に影響を与えたといえます。

この関係を、「分人」概念は、うまく説明します。「分人主義」によれば、人の個性や人格は、「分人」のネットワーク、「分人」の集合体です。ウェブ上の人格もひとつの「分人」なので、ウェブ上の人格という「分人」を、自分という「分人」ネットワークにリンクすれば、自分の個性がウェブ上の「分人」から影響を受けます。

ウェブ上の人格を匿名にし、実名のリアル人格から切り離している場合でも、同じことです。自分が、匿名のウェブ上「分人」をリンクすれば、影響を受けます。リンクを外せば、個性への影響は減ります。

ウェブ上の人格と実名リアル人格との、こんな微妙な距離感を、「ネットワークへのリンク」という「分人」の個性観は、うまく捉えています。

(3) ウェブ上の人格は、必ずしも、他者との間に明確な線を引くことができない

「分人」という考え方は、他者との関係においては分割不可能である、とします。どのような「分人」でも、半分は他者のおかげであると同時に、他者のせいです。

この点でも、「分人」は、ウェブ上の人格となじみやすい考え方のように思います。

ウェブ上の人格を具体的に形作っているのは、ブログの記事やSNSの投稿です。ブログにせよSNSにせよ、何らかの情報を受け取り、そこに自分なりの何かを加えて、発信する、という流れがあります。まったくなにもないところに自分の中からオリジナルなものを生み出すというよりも、何らかの対象を前提に、そこに自分なりの何かを追加する、というあり方です。

しかも、ブログ記事やSNSの投稿の場合、どの部分が他者に由来し、どの部分が自分が追加したオリジナルな部分なのかの線引が、必ずしも厳密ではない傾向にあるように思います(このことの良し悪しはさておき、事実として)。

こんなブログやSNSにおけるウェブ上人格のあり方に、半分くらいは他者のおかげであり他者のせいである、という「分人」の世界観と親和的なものを感じます。

ちなみに、ちょっとだいそれた話になってしまうのですが、平野啓一郎さんは、言葉そのものが、そもそも「分人」的な性格を持つことを指摘します。

自分という人間のなにがしかが表現されているその文章のいずれの箇所も、彼の中の分人が、今日まで様々な機会に少しずつ人から譲り受け、彼個人のものとしてきた言葉によって作られていた。そうして今、書くということを通じて、彼の中のすべての分人が響き合い、彼にその分人を生じさせたすべての人々が内から彼に語りかけて、次に発するべき言葉を代わる替わる教えていた。  

location 13344 「分人」シリーズ合本版『ドーン』

ウェブ上の人格は、その性質上、言葉、しかも書き言葉が、重要な意味を持ちます。ウェブ上の人格を生きることは、具体的な行為のレベルでは、文章を書くことが大きな割合を占めます。

抽象的な点ですが、この点も、ウェブ上の人格と「分人」とがつながるポイントではないかと思います。

3.ウェブ上の「分人」を生きる意義

以上のとおり、ウェブ上の人格は、「分人」として理解することができます。とはいえ、ウェブ上の人格を「分人」と理解するのは、たぶん、ひとつの捉え方に過ぎません。反対に、「キャラ」や「仮面」として理解することもありうるでしょう。

つまり、

  • ウェブ上の人格をどのように見せるかは、自分で決める。意図的に切り替えて、意図的に演じる。
  • ウェブ上の人格は、自分の個性へはリンクさせない。ウェブ上の人格がした思考や経験は、もともとの人格からは切り離す。
  • ウェブ上の人格と他者との間に、できるかぎり明確な線を引く。他者に由来する部分と自分オリジナルな部分を、厳然と区別する。

こんな方針です。

でも、ウェブ上の人格は、「キャラ」や「仮面」ではなく、「分人」として理解してこそ、大きな可能性を発揮すると、私は考えています。いくつかのポイントに光を当ててみます。

(1) ウェブ上の「分人」は、自分の大切な一部分を発揮する

自分には、いろいろな側面があり、いろいろな可能性があります。いつも自分の中にある同じ部分しか発揮できないことは、ストレスです。とりわけ、発揮できていない部分に、自分としては大切にしたいところが残っていると、強い閉塞感を感じてしまいます。

人間は、たった一度しかない人生の中で、出来ればいろんな自分を生きたい。対人関係を通じて、様々に変化し得る自分をエンジョイしたい。いつも同じ自分に監禁されているというのは、大きなストレスである。

location 14893 「分人」シリーズ合本版『私とは何か』

これに対して、「分人」という概念は、自分の中にある大切な部分を発揮するための道筋を示してくれます。ひとつの関係だけで自分の中にあるすべての可能性を発揮することはできないけれど、いろいろな「分人」を通してであれば、つまり、いろいろな他者との関係の中でなら、自分の中にあるいろいろな可能性を発揮できる、というのが、「分人」の戦略です。

私たちは、たとえどんな相手であろうと、その人との対人関係の中だけで、自分のすべての可能性を発揮することは出来ない。

location 14079 「分人」シリーズ合本版『私とは何か』

このように、自分の中にある大切な一部分を発揮する、というのは、もともと「分人」という概念の中核にあるのですが、ウェブ上の「分人」は、この点で、とりわけ強力な役割を果たす可能性を秘めています。

というのも、まず、ウェブ上の「分人」は維持コストがとても低いので、現世的なコスト・パフォーマンスから、かなり自由です。つまり、儲ける必要がありません。その分、自由にいろいろな「分人」であることができます。

また、ウェブ上の「分人」は、「ここにいたんだ」現象を引き起こします。「分人」は、他者との関係から徐々に生まれるものなので、自分の大切な部分を発揮してくれる「分人」を生きるには、その同じものを大切にしてくれる他者との出会いがとても大切なのですが、ウェブなら、自分と同じ対象を大切にしてくれる他者と出会える可能性が、大きく広がっています。

もちろん、ウェブ上の「分人」だけで、自分のすべてを発揮する必要はありません。でも、ウェブ上の「分人」は、リアルの関係における「分人」ではなかなか発揮しづらい部分を、発揮させてくれる可能性を持っています。

(2) ウェブ上の「分人」で実験して、「分人」ネットワーク全体のデザインを試行錯誤する

「分人」という考え方は、人の個性や人格を、「分人」のネットワークとして捉えます。

この考え方によれば、「幸せ」や「人生の充実」なども、個々の「分人」によって決まるのではなく、「分人」ネットワークの全体から決まるのではないかと思います。

そこで大切になるのが、「分人」ネットワークをデザインする、という発想です。個々の「分人」を充実したものにすることも大切ですが、そもそもどんな「分人」を、ネットワークのリンクに加えるかが、勝るとも劣らないくらい、大切になるわけです。

では、どんな「分人」をネットワークにリンクさせるかをデザインするするには、何が大切なのでしょうか。

私は、実際に「分人」を生きてみること、だと思います。実際にその「分人」を生きてみなければ、その「分人」をネットワークにリンクさせるか否かを判断することはできません。「分人」ネットワークのデザインは、試行錯誤の積み重ねです。

とはいえ、下手な「分人」を生きてしまえば、他の「分人」に悪影響が生じるかもしれません。通常、「分人」ネットワーク全体は、それほど余裕がないなかで動いているので、ひとつの「分人」で失敗して、他の「分人」に悪影響が及んでは、ネットワーク全体が機能不全に陥ってしまうリスクもあります。

そこで、ウェブ上の「分人」の活用が考えられます。ウェブ上の「分人」を、他の「分人」からはとりあえず隔離された実験場のように活用することで、リスクの少ない状況で、新しい「分人」を試してみることができます。

私がブログに求めている「実験場」という役割は、「分人」という観点からは、このように理解できます。

平和な閉塞感は、解消すべき課題なのか?(普通の個人が、ブログのある毎日を送り続ける、ということ)

(3) 言葉を書くことで、自分の「分人」ネットワークがどんな他者に由来するかを自覚する

ブログやSNSは、言葉中心です。ブログやSNSによってウェブ上の人格を生きることは、具体的な行為のレベルでは、文章を書くことが大きな割合を占めます。

とはいえ、これはそれほど簡単なことではありません。

自分が表現したい何かにまとまった言葉を与えるには、技術も必要です。書いても書いても書き上げることができないこともよくあります。

自分が書いている文章が、どこかで誰かから聞いた言葉のパッチワークに見えてきて、自分の言葉がどこにもないような気がすることもあります。

自分の言いたいことを、自分の言葉だけで表現し切るのは、本当に難しいことだと、つくづく思います。ウェブ上の人格を生きるのも、楽ではありません。

これは本当にまったくそのとおりなのですが、ウェブ上の「分人」を生きる、という観点からは、文章を書き上げることができないことも、自分の書いた言葉がどこかで誰かが言っていた言葉のような気がすることも、それほど悪いことでもないかもしれません。

『ドーン』の中で、主人公明日人は、自分という人間について、文章で表現しようとします。そのときに明日人が感じたことが、さきほども引用した次の一節です。

自分という人間のなにがしかが表現されているその文章のいずれの箇所も、彼の中の分人が、今日まで様々な機会に少しずつ人から譲り受け、彼個人のものとしてきた言葉によって作られていた。そうして今、書くということを通じて、彼の中のすべての分人が響き合い、彼にその分人を生じさせたすべての人々が内から彼に語りかけて、次に発するべき言葉を代わる替わる教えていた。  

location 13344 「分人」シリーズ合本版『ドーン』

明日人は、文章を書く際に自分が無意識に使った言葉が、他者から譲り受けた言葉であることを感じ、自分の中にいる他者との「分人」の存在を自覚しました。

文章を書いているときに、自分の言葉が、どこかで誰かから聞いた言葉なのだとしたら、その言葉は、自分の中にいる「分人」が他者から譲り受けた言葉だともいえます。文章を書く過程で、そんな「分人」が他者から譲り受けた言葉に気づくことは、それ自体、大切な意味を持つことです。

ブログ記事を書き上げることを目指して、しばらくの間文章を書き続けたけれど、結局、書き上げることができなかったとして、他者から分割可能な「個人」という考え方からすれば、最終的な成果物を生み出せなかったので、無意味だった、ということになるのかもしれません。でも、他者とは分割不可能な「分人」という考え方からすれば、ブログ記事を書き上げようとする過程で、他者から譲り受けた言葉の存在に気づき、自分の中にある他者との「分人」の存在を見つけたなら、それ自体が、意味あることなんじゃないかと思います。

ウェブ上の「分人」を生きるとは、具体的な行為のレベルでは、ウェブに公開することに向けて文章を書き上げようとすることを意味します。でも、その行為の意味は、必ずしも、文章を書き上げることにあるわけではありませんし、借り物ではない自分独自の言葉を形にすることにあるわけでもありません。

ウェブ上の「分人」を生きる、という発想でブログやSNSをすることには、こんな可能性があるんじゃないかなあと、ぼんやりと考えてるところです。

(もっとも、まだまだ全然整理できていないのですが。)

—編集後記—

今回は、平野啓一郎さんが提唱する「分人」という考え方を、ブログと絡めて、考えてみました。

私が「分人」という概念を知ったのは、1年ほど前、次のブログ記事と出会ったことから、『ドーン』を読んだときのことでした。

分人ネットワークとアウトライン・プロセッシング. August 24 2015 | gofujita notes

そのときから、「分人」とブログの関係をずっと書いてみたいと思いながら、もがいていたのですが、アシタノレシピのおかげで、ようやく形にできました。いつも連載を読んでくださっている読者の皆様のおかげです。ありがとうございます。

もっとも、そうはいっても、この記事の私の説明は、あんまりうまく行っていないところが多いかと思います。なので、私としては、平野啓一郎さん自身による一連の著作を読んでいただきたいなあと願うばかりです。

折しも、アシタノレシピ今月の月イチテーマは、「秋の夜長にお奨めしたい5冊」です。そこで、今回のテーマと関連する5冊を、順に紹介します。

(1) 『ドーン』

小説です。SFです。平野さんは、本書によって、はじめて、「分人」という概念を提唱しました。

小説として、文句なしに面白いです。

(2) 『空白を満たしなさい』

これも小説です。自殺の問題をテーマにしています。

「分人」や「分人主義」を、生きていくために活用するひとつの考え方が、提示されています。

気取らず平易な小説で、安心して読めます。

(3) 『私とは何か 「個人」から「分人」へ」

小説ではありません。「分人」概念をわかりやすく説明してくれます。

本書の説明にあたって、平野さんが採用する方針は、具体的で身近な現象を観察することです。読者は、本書を読みながら、「分人」という概念の妥当性を、自分の経験に照らして、確認することができます。

読者としての私は、この本を読んで「分人」という概念に、深く納得しました。

(4) 『マチネの終わりに』

小説です。音楽と愛の小説。とてもきれいです。

『マチネの終わりに』のテーマは、「分人」ではありません(あえていえば、「過去を捉え直すこと」とかかな)。でも、「分人」という考え方が、ところどころに登場しているような気がします。

たとえば、主人公の洋子がNGOで働き始めるシーンや、

自分がどういう考えの人間に共感するのかということを、洋子は久しぶりに思い出し、今後の人生を出来るだけそうした人々と共に過ごしたいと願っていた。それが、生の倦怠から逃れるための、恐らくは最も確実な方法だった。

location 4715 『マチネの終わりに』

主人公の蒔野が洋子に語ることを考えることから気づくこのシーンなどが、

幸福とは、日々経験されるこの世界の表面に、それについて語るべき相手の顔が、くっきりと示されることだった。

location 2014 『マチネの終わりに』

世界に意味が満ちるためには、事物がただ、自分のためだけに存在するのでは不十分なのだと、蒔野は知った。

location 2037 『マチネの終わりに』

その一例です。

(5) 『実存からの冒険』

最後の1冊は、平野啓一郎さんの本でないばかりか、「分人」とも全然関係のない1冊で、私が何度も紹介している『実存からの冒険』です。ニーチェ・ハイデガー・フッサールの思想を、哲学者の西研さんが解説します。

「ウェブ上の「分人」を生きる」との関係で私が強いつながりを感じるのは、〈実験=冒険としての生〉というイメージです。『実存からの冒険』は、「自分の生をモデルケースとみなす」という生き方を提示し、私もこれに深くワクワクするのですが、リアル人格と切り離されていない「分人」で〈実験=冒険としての生〉を実践するのは、なかなか大変です。そこで、ウェブ上の「分人」の出番となります。

なお、西研さんが本書等で提唱し実践する現象学的な方法は、『私とは何か』において平野さんが採用する考察の方針と共通するように思います。この点でも、私は『実存からの冒険』と「分人」との間のつながりを感じているのですが、おそらくこれは主観的なものです。

さて、「彩郎」という私の分人は、いまでは、様々に分化してきました。中でも大きな割合を占めるのは、WorkFlowyに関連するいくつかの分人です。

次回は、「彩郎」とWorkFlowyの関係のことをお話します。「とりあえずWorkFlowy」戦略から、HandyFlowy&MemoFlowyの誕生までのストーリーをお伝えしたいなあと思っています。

また2週間後にお目にかかれることを楽しみにしています。

この記事が気に入ったら
いいね ! しよう

Twitter で

シェアする

フォローする