「うちの子、絵が上手でないんです」
「胴体から直接手がでていて、悩んでいます」
12月になって急に寒くなりましたね。知的生活ネットワークのLyustyleです。
今回は、30年以上にわたって携わっている子どもの絵についてのお話です。
この連載でカバーしているのは、年長さんから小学校6年生くらいまでのお子さんのことですが、この年代のお子さんの絵についてはひとことで語ることはできません。
なぜなら、6年生くらいの子どもの「絵」と幼児期の子どもにおける「絵」はまったく別物だからです。幼児期の子どもの絵は大人が思う「絵」とは違うものです。
そこで今回は、幼稚園~入学時くらいまでの子どもの絵にしぼってお話ししたいと思います。
大人は、飾っておけるような完成された、形と色で構成された価値あるもの、というように思うのですが、幼児期のお子さんにとっての絵は、砂場での砂遊びと同じことです。
砂場で穴を掘ったりお山を作ったり、そのお山にトンネルを掘ったり、上から水を流してみたりすることと同じく、幼児にとっての絵は、遊び場を紙に変えただけです。
そこでは、子ども達は、パスやクレヨン、鉛筆などをスコップやお水のかわりにして、「ざくざくざく・・・」とか「ごごごご」とかそんなことをつぶやきながら紙に線や形をかきなぐっていきます。
何が描けようと、描いたものがなんであろうとおかまいなし。平気で上から塗りつぶしたり、大人がたまげるような色で塗ったり、せっかくかいたものの上から重ねがきをしたりします。
砂場で山作ってこわして遊んでいるのといっしょでしょ?
子どもは無心に紙という砂場で遊んでいるだけなのです。
それを、大人は絵だと勘違いしてしまう。
これが一点です。
次に、子どもにも「絵を描こう」という意識はあります。
「お父さん描いた」とか「これはお母さん、これは私、これは・・・犬(あれ・・・?ぼくはかかれてない・・・by 父親)」などと説明しに来ることがあります。描いたものを媒介としてコミュニケーションをとろうとしています。描いたものを誰かに伝えたい、というのですから作品としての「絵」という意識を持っています。
しかし、持ってきたのは、びっくりするような怪物。歯がむきだしになっていて、三白眼、顔から直接手が生えているおばけみたいなものです。それを「これ、お父さん」などと言って持ってこられた日にはどうしたらいいのかと頭を悩ませてしまうかもしれませんね。
子どもが絵と思っているものと、大人が絵と思っているものとは大きくちがうということです。
これが二点目です。
砂場での遊びとしての絵
子どもが無心に砂場で遊んでいる時に、「君が作っているのは、とてもお山と言えるものではないよ」などと言う人がいないのに、紙にお花をかいているのをみて、「ちがうちがう、お花ってこうかくのよ」なんて言っている方はいませんか?
子どもはお花の描き方をおしえてほしいなんてこれっぽっちも思っていないのに。
それよりも「ああ、きれいなお花さんねぇ。」と言って一緒に遊んで欲しいのに、上手な絵をかける子にしなくちゃ、とばかりに描き方を教えてしまいます。
親が教えなくても、お兄ちゃん、お姉ちゃんが親切に教えてくれます。となりの兄ちゃんとかいとこの姉ちゃんも実に親切です。保育園、幼稚園でも懇切丁寧にライオンさんの描き方などを教えてくれるところがあります。
教えてもらってうれしいならいいのでしょうが、そのうれしさも時には、「お日さまは赤」など、記号としてのその文化共通の表現を手に入れたうれしさにすりかえられてしまい、表現の喜びという大事な成長の形が失われてしまうことがあります。
海外日本人学校に勤めていたとき、1年生が描いた絵に黄色いお日様が描かれていました。その子は現地の幼稚園から上がってきた子です。
その国の子は太陽を黄色に描きます。目の色素の関係などで黄色に感じるのだそうですが、彼らの国の文化としての記号なのかもしれません。
現地の幼稚園に通ったその子は、お日様を黄色に描くという文化の中で育ち、その記号を獲得しました。
他の子ども達は、日本からやってきました。ついこの間まで日本の幼稚園に通っていた子ども達です。
その子たちは、赤い太陽を描いていました。太陽は赤、という文化の中で育ったからです。
太陽を赤く描いていた子どもが、しばらく現地で暮らしているうちに黄色く描くようになることがあります。
その文化での共通記号を獲得したからですが、それを「大変、うちの子が太陽を黄色く描いた!」と慌て騒ぐことではありません。
赤く描こうが黄色く描こうが、いいのです。
描きたいように描いて、「ああ、できたー」と思って、お父さんやお母さんに「晴れてたんだねー」と言ってもらえさえすれば、この子は発達していくのです。
うちの子は3歳の頃、「この前遊びに来たおねえちゃん」と言って頭を三角にかき、その真ん中に目玉をかいていました。
「あのなあ、おまえ。あたまは丸だよ。三角じゃないんですよ」なんて野暮なことはいいません。
「三角だねぇ」といってあげたらいいのです。
そうしたら息子はちゃんと理由を言っていました
。「寒かったからフードをかぶってるの」
なるほど。だから三角か。
また、ある日、下の息子が雪合戦をした自分を描いてきました。その頭の中にぐるぐるとうずまきがあります。
「へんなものがかいてあるぞ」なんて野暮なことはいいません。
またもや「ぐるぐるがあるね~」と言ってあげます。するとちゃんと理由を言います。
「雪を持ったら冷たくて頭がきーんときた」といいました。
なるほど、だからぐるぐるを描いたのか。
自分で獲得した表現の方法なんだな。それがわかるなんて、なんてすてきなコミュニケーションでしょうか。
「ぐるぐるがあるね~」という承認だけで、子どもは感じたことを吐露してくれるのです。
「あたまは丸よ」
「へんなものかくんじゃないの!」といってより立派な絵をかかせようとするのと、どちらが子どもの成長にとってよいものかどうか、よくわかっていただけると思います。
子どもはいかにも絵を描いているようにしながら、砂場で遊んでいるのです。そのなかで、心や技を獲得しているのです。
いっしょにあそんであげましょう。
子どもの絵と大人の絵とのちがい
上でもふれたのですが、子どもは絵という意識もなく、コミュニケーションの手段として描いている場合があります。また、絵と思っている場合もあります。
どちらも大人が思っている絵とは随分違います。
私が3歳の時の絵と父への感謝
私が3歳ほどの時のこと、私は父の絵を描いたことがあります。よく覚えているのです。
すごく厳しい父だったのですが、大好きでした。
ある日,たまたま私が起きている時間に帰っていたのでしょう。父がいるのがうれしくてその絵を描いたのです。
私はとてもよくできた、父とうりふたつだ!と思いました。それも覚えています。
うれしくてその絵を父に見せました。
そうしたら、家でもあまり笑わない父がにっこりと優しくわらって「ほお!お父さんにそっくりだ!」と言いました。
うれしくてたまらず、私は紙をもらってたくさんいろんな絵を描いては父に見せました。
その後、いつも広告の裏をもらっては何か描いている私を思い出します。今にもつながっているラクガキです。
ところがある日、がくぜんとすることがおこりました。
私の結婚式の前日、親戚の叔父叔母が家に泊まりに来た際、父が箱から私の小さな時の写真をだしてみんなに見せていたのです。
その父が一枚の写真をとりあげて「ああ、これはおまえが小さいときに私の絵を描いてくれたときの写真だ」といいました。
どうやら、あのあと、父は私と写真を撮ってくれていたらしいのです。
「へえ。どんな絵をかいてたんだろう。うまくできたからなあ」と思いながら興味津々でその写真を見たとき、どかーんと頭を木槌でなぐられたような気がしました。
にこにこと笑う父の横で、得意そうに大事そうに私が抱えている一枚の絵。その絵には、妖怪の「ぬっぺっぽう」のようなものがかかれていたのです。
丸にめだまとくちを描いて、そのまるから直接手足が出ている絵です。首も胴体もありません。
私はたしかによくできた、と思っていたのです。
しかし大人になった自分が見ているのは、お父さんとは似ても似つかないお化け。
私は驚愕しましたが、同時に感動しました。
実はすでにその頃には幼児の表現についての研究を始めていましたので、このような様式の絵については十分わかっていたのです。
これは、世界中の子どもが,3さいころになるとだれからもおしえられることなく獲得する表現の様式で、「頭足人」と呼ばれているものです。
お子さんがこの絵を描いたら、それは自ら獲得した能力ですから大喜びしてもいいくらいのことです。
それを、ちゃんと自分も描いていた。
自分もそこを通ってきたのだ。そういう感動でした。
そして、それを写真という形で残してくれた父に感謝すると同時に、本当にある一言をよく言わないでくれた、という奇跡にも似たことへの感謝でした。その言葉とは
「なんね。これ。首も胴体もないやないね」
おそらくそのように言われていたら、その後、絵を描くことをやめていたかもしれません。勇気をくじかれた私は、紙と鉛筆をもつことさえいやになったかも・・・
絵を描くことどころか、いろんなことにびくびくする自信のない子に育っていったかも・・・。
父がそのような発達に基づく幼児の絵の様式のことを知っていたのかどうかはわかりません。
おそらく知らなかったでしょう。
しかし父にあったのは、成長しようとしている私へのあたたかいまなざしと、それを受け止めて喜び、いっしょに歩もうとする愛情であったのです。
先に書いた、私の二人の息子へのわたしの承認の声かけは、父から譲られたものでした。
子どもの気持ちを読み取る愛情と承認の言葉
子どもが「お花描いた」といってもってきたら、「お花描いたね~。はなびらがあるねえ」とそのまんま受け入れて承認してあげてください。
それが子どもの成長に向けての大事な肥料になります。
してはいけないのは、「なんねこれ。人になっとらんやないね」という否定の言葉をかけること。
しないでほしいのは,たのまれてもいないのにしてしまう「チューリップはこうかくのよ」「これが雲の描き方」などの無用のアドバイス。
コンクールへの応募と入賞について
よく「母の絵コンクール」とか「おじいちゃんおばあちゃんの絵コンクール」「動物の絵コンクール」など、さまざまなコンクールへの募集を目にします。
私も審査をお願いされることがあります。
審査をするときに気をつけているのは、うまいとかへたとかそのようなことではなく、「どんな気持ちでこの線を描いたのかな」「どんな思いがこもっているのかな」ということに思いを馳せることです。
いくら技術的に上手で、写真をそのままトレースしたかのような高い技術で描かれた絵でも、そこにどんな思いが込められているだろうか、誠実に描かれているだろうか、という声を聞こうとします。
写真のようなおじいちゃんやおばあちゃんが描けることだけがいいのではなく、つたなくてもおじいちゃんのほっぺたのちくちくする痛いひげが200本ほども一本一本大事に描かれている絵もいいのです。
つい見とれてしまうよさがあります。伝わってくるのです。「おじいちゃんが好きなんだなあ」って。
お母さんがお皿洗いをする後ろ姿の絵をなんらかのきっかけでひょいとうらがえしたら、そこにはお母さんの顔やエプロンに当たる部分に顔やエプロンの模様がかかれていた、などという話を聞くと、この子がこの絵をどれほど大事に描いたかが伝わってきます。
絵を描くというのはそういうもので、「こんなもの、こんなことを描きたい」という思いで描くことを積み重ねることで、学びに主体的に取り組める子どもが育っていくのです。
入賞した絵がずらっと貼られた中を見て回ると、家族みんな、時にはおじいちゃんおばあちゃんまで総出でお見えになっている家族があります。
その中で時々「なんでこんなへたくそな絵が入賞したんだろう」とか、「君の絵はなんだかわからないけど、うまいとおもわれたんだろうね。絵ってのは深いね」などの会話が聞かれることがあります。
少々残念です。「うまいから」「じょうずだから」選んだのではなく、描きたい!という思いを丁寧に誠実に表した作品だから選ばれたのです。
画家の卵の発掘、希有な才能の発掘を目的としたコンクールも中にはあります。
そのようなコンクールでは、技術の高さ、いかに上手に描けているかということが審査の基準になるでしょう。
私などの教育関係者が審査するコンクールでは、賞状は、上手さ、うまさに対して送られるのではなく、誠実さ、思いの豊かさ、主体的に描けたことなどに対して贈られます。
情操を豊かにするというのが、図画工作科の教科の目標だからです。
だから、子どもの絵がうまい、へたなどといって困ることはありません。
いっしょになって遊び、共感し、寄り添ってあげて下さい。
たくさん承認され、勇気づけられた子は、たくさん絵を描くようになるでしょう。そして、「上手」という技にかんすることもいつの間にか身につけていきます。
まとめ
- 子どもの絵は、砂場での砂遊びのようなもの。いっしょに遊んで。
- 子どもの絵と大人が思う絵とはちがう。
- うまく描かせよう、写真のように描かせようとしなくてもいい。むしろ、承認と勇気を。
今回は,専門にしている分野だけあって,流れるように言葉が出てきました。
世の中の子どもたちが幸せなお絵かきライフを送れますように。
それではまた,2週間後に!
小学校の教師を33年間勤めています。
渡部昇一氏の「知的生活の方法」を読んで以来,忙しい中にも知的生活を求め続ける人生を送りたいと思ってこれまでやってきました。
2008年よりブログ「知的生活ネットワーク」をやっています。
BLOG:知的生活ネットワーク
Twitter:@Lyustyle