「這えば立て、立てば歩めの親心」と申します。
かわいい子供がどんどん成長していくのは、親としてとても嬉しいことです。
でも、世の中にはこんな言葉もあります。
「啐啄同時(そったくどうじ)」
「啐(そつ)」とは、雛鳥が「そろそろ卵から産まれたいよ」と内側から殻をつつく音。
「啄(たく)」とは、親鶏がその合図を聞きつけて、外側から殻を破ってあげるためにつつく音。
産まれたいヒナに,産まれてきてほしい親鶏が絶妙なタイミングで支援することで無事産まれることができるのです。
親鶏が、早くヒナに帰ってもらいたいために、まだ十分に育ってもいないのに殻を突き破ったら一体どうなるでしょう。
子どもに早く成長してもらいたいと思って、子どもに発達の準備もできていないのに、大人と同じようなことをさせようとする。
これを育て急ぎと言います。
その時期に必要とされる発達の課題をじっくりクリアさせること
人間の発達というのは、その時期その時期に必要とされる発達の課題があります。
はいはいをするときにしっかりと這うことで、腕や背筋、腰の筋肉が育っていきます。
そして十分に這ったところで、ある日ようやくつかまり立ちをするようになります。
「這う」という時期を十分に過ごし、その時期の課題を達成してから立った子どもは、よちよち歩きをし始めても決して頭や顔から転げ落ちるような倒れ方はしません。
上手に腰からストンと地面に座るようにこけることができます。
これが、その時期の発達課題を達成するということです。
しかし、「這い出した!やった!うちの子は育ちが早いかも。よし早く立てるようにしてやろう」と思って無理に手をとって立たせたりしていると、子どもは這う時期に味わうことや鍛えることができないまま次のステージに立つことになってしまいます。
その結果、立ちはするけど、グラグラして頭から倒れこむようなこけ方をするようになってしまいます。親は子どもが頭からこけたら大変なのでそばを離れることができません。しかし、一旦立つことを覚えた子どもは御構い無しにつかまり立ちをし、よろよろ歩きをしようとします。大変です。
我が家では、その両方とも経験しました。
上の子については、特に早く立たせようなどとは思わなかったのですが、一歳になるずいぶん前からつかまり立ちを始めたことを素直に喜んでいました。その結果、這う時期が短かったその子は、ポテポテと頭から倒れこむこけ方をし、親の気が抜けないことになってしまいました。
二人目の子は、十分に這わせました。ついつかまり立ちをしてしまいそうなものはなるべく遠ざけて、這える場所をなるべく確保しようとしたのです。
つかまり立ちをするようになり、その後よろよろ歩きをするようになりましたが、決して頭からは倒れこみませんでした。お尻からぺたんと落ちるのです。
十分に這わせたことが、這う時期の様々な運動の能力を育てたのでしょう。
「子どもは幼く育てなさい」
今の子どもは、小さな頃からおもちゃでなく「本物」を与えられます。
本物のゲーム機、本物の時計、本物のスマホ。
大人が使うものと同じ機能のものを物心つく頃から与えられ、その時期に必要な、「それがないことによる工夫、創造力、発想、驚き、感動の発揮や成長」の機会が与えられないまま大きくなります。
育ち急ぎ、育て急ぎです。
おもちゃは大事なのです。
こうして,形だけ大人で,中身は心理的にも身体的にも十分に育っていない人が育っていきます。
私が若い頃,ある方から「子どもは幼く育てなさい」と言われたことがあります。
育て急ぎをせず,その時その時にクリアしなければならない発達上の課題をひとつひとつ十分に達成させながらじっくりと育てると,ある時期が来たら心も体もしっかり自立した人に成長するということです。
今ならよくわかります。
まとめ
子どもの背伸びは大事なことですが,何から何までかなえてやっていたら,発達場の課題がクリアできません。同じく,早く手がかからないようにしたいとばかりに大人のものを与え,大人の生活時間で生活させ,大人の食べるものを食べ・・・ということばかりしていると,見かけははやく手がかからなくなりますが,大事なものを置き去りにしたまま大きくなってしまいます。
子どもは,育て急ぎをせず,じっくり育てたいものですね。
小学校の教師を33年間勤めています。
渡部昇一氏の「知的生活の方法」を読んで以来,忙しい中にも知的生活を求め続ける人生を送りたいと思ってこれまでやってきました。
2008年よりブログ「知的生活ネットワーク」をやっています。
BLOG:知的生活ネットワーク
Twitter:@Lyustyle