【前回のおさらい】何でも書いて良いコメントボックスを設置した新米大学教員のぱうぜです。泣き顔になった女子学生、明日香さんから突きつけられた質問がこちら。
”大学一年通ったけど戸惑ってばかりです。答えは一つじゃないんですか?”
この問題は根が深そうだ。ゆっくりコーヒー飲みながら答えていくことにしよう・・・。
(前回のお話はこちら)
「哲学的な質問でもいいですか?」コメントボックスは波乱の幕開け
「答えは一つ?」この疑問の裏にあるもの
「明日香さん、どうしてこういう疑問を持ったのか、もう少し詳しく教えてもらえるかな?」
「わけがわからなくなったきっかけは、“学説”について勉強したときなんです。法学の教科書って、一つの問題に対して、○○説とか、××説とか、いっぱい説が書いてありますよね」
「ひとつの論点にいろんな考え方がある、っていうことを学ぶんですよね。」
タイミング良く合いの手をいれてくれた男子学生は、一緒についてきてくれた進吾くん。
「高校までの教科書には、そんなこと書いてなかったんです。答えは一つ、って決まっていないんですか?」
「ああ、それは俺もちょっと戸惑いました。結局、実務ではある一つの説をとっているみたいだし、ほかの学説って意味あるんですかねえ」
ええと、これはちょっと二人ともショック療法が必要かもしれない。
「研究」者が教える意味
「それじゃ、ちょっと話をそらすけど、大学の先生って何やってるか知ってる?高校とは違うんだけど」
「研究をしている、ってことですか」
「そう。ここも、職員室じゃなくて研究室というくらいだしね。それじゃあ、研究ってなんだろうか」
我ながらちょっと恐ろしい質問をしているけれども・・・ふたりとも黙りこくってしまった。
「卒論を書く学科もあるよね。卒論指導をしている大学の先生(next49さん)が、こんなブログ記事を書いているんだ、みてごらん」
卒業研究を始めた年から今年で7年目。やっと研究と勉強の本質的な違いが見えてきたように思う。分野によって異なるとは思うが、研究とは科学的手法に基づいて世界に存在しなかったものを存在するようにするものである。勉強は、世界に存在するものを学ぶ(存在を認識する)ことである。もう一度いうと、研究は「無い」ものを「有る」ようにするのが目的、勉強は「有る」ものを「知る」のが目的。
(太字化は引用者による。リンク先で続きも是非ご覧ください)
「これが、明日香さんの疑問にどう関係するんですか」
「ちょっとこれだけだとピンとこないかな。それじゃあ、博士論文というものについてイメージしてもらうために、こちらのリンク先もみてもらおう」
元記事(英語):The illustrated guide to a Ph.D. (Matt Might博士の記事(CCライセンス(Non commercial))
日本語化+説明記事:博士号(Ph.D.)をとるまでの道のりをイラストで示すと。。。~ライフサイエンスプロジェクト
*ぜひ導入から「オチ」までを体感してください*
「「えぇええええ」」
二人してなんて声を上げるんだ。
「だって、人間の英知の境界線をちょこんと押しただけ、それが博士論文なんですか」
「研究者って、しんどいんですね・・・」
ええ、しんどいのです。それも、押し続けないといけない。
「高校までの勉強と大学からの勉強については、さっきのMight博士のイラストだと、どんな風に描いてあるかな」
「高校までの知識はまんまるだけど、大学ではちょっと専門になるから、凸ができるんですね」
「そして、大学院に進学すると、凸が大きくなって・・・博士論文はそれを伸ばして人類の英知を”押す”行為なのだ、と」
「そう、ちょっぴりだけどね。これは、社会科学である法学でも変わらない。今までの人類の英知の枠をちょびっとだけ押し続ける行為なんだ、研究というのは」
「それを、next49先生は『研究は「無い」ものを「有る」ようにするのが目的、勉強は「有る」ものを「知る」のが目的』と表現しているんですね」
「大学で教える人が全員研究者である必要はないと思うけど、『研究と勉強の違い』を体感としてわかっている教員が教えるということが、高校までの学びとは大きな違いだと思うんだよね」
教科書の違い
「それと、教科書に載っていることの違いはどう関係するんですか。高校の教科書は答えが一つでした」
「本当に?本当に答えは一つなのかな。例を挙げてみて」
「例えば、イイクニ作ろう鎌倉幕府とか、1192年ですよね、鎌倉幕府の成立年は」
「いや、俺の習った教科書は違ったよ、1185年」
そう、実は鎌倉幕府の成立年は議論があるところのようです。両論併記している教科書もあるとか。
「高校までの教科書は実は教科書検定という仕組みがあって、・・・ああ、これも行政法なんだけど、国の検定制度があるんだ。だから、なるべく教科書の記述が客観的で公正なものとなり、かつ、適切な教育的配慮がなされたものとなるようにしなければならない…とはいうものの、一義的に確定できない場合もあるんだよ」
「高校までの教科書でも、”答えが一つ”じゃないものがあるんですね」
「でも、全部が全部この調子だと、暗記とかできないっすね」
「そう。だから、このように答えがいくつもあるのは例外にみえるかもしれない」
「ひととおりの知識を仕入れるための高校までの教科書は、もっとも確からしいことを中心に書いているんですね」
「それに対して、専門教育ではそうもいかない、のか・・・」
「だから検定もなくて、先生達、自分が書いた本とかを指定するんですね」
その代わりといっては何だけど、どの教科書を選ぶかも難しいんだよね、実は。
「まして、この先、人類の英知に挑むためには、”既存の知識を疑ってかかる“力も必要になる。そういう専門教育においては、議論の筋道自体が書いてあることのほうが大事なんだよ」
専門教育における「勉強」の部分は?
「あ、でもそれじゃあオカシイっすよ、ぱうぜセンセ」
あれ、進吾くんがなんか得意げに指摘してきた。
「俺、別に研究者にならないです。弁護士になりたいんです。今ある法律のプロです。それなら、学説対立とか別にいらないんじゃないっすか?」
あ-、これは典型的な疑問だ。どう答えれば良いかなあ・・・
「学説対立って、何を覚えようとしているのかな?」
「え、結論でしょ。A説をとると、こういう結論になって・・・」
「いや、そうじゃないんだ。分岐と過程を追体験して、一応納得することが必要なんだよ」
「よくわかりません」
「A説の人はどこにこだわりがあって、B説の人はどういう風になることにこだわっているのか。こだわるポイントの理解も、結論の妥当性と同じくらい重要なんだよ」
「そんなの、現場で考えればいいじゃないですか、わざわざ覚えなくても」
「いや、そこも専門教育における”勉強”の部分ってことじゃないですか?」
お、今度は明日香さんが元気になってきた。
「next49先生は『勉強は「有る」ものを「知る」のが目的』っていってますけど、専門教育にも勉強の部分があるんですよ、きっと。そもそも一般人はつゆ知らず、法律家だったら知ってて常識の範囲、っていうのがあるんですよね?それを知らない弁護士さんが、いちいちウンウン考え込んでるのって恥ずかしいじゃないですか」
「おお。いい着眼点だね。そう、今までの人達が考えたことのポイント、つまづきポイントみたいなものを知らないと、そもそも疑問に思うことすらできないんだ。そういう『専門家にとっては常識』という筋道や、分岐点を学ぶのが、専門教育における勉強の部分に含まれるんだよ」
勉強「時間」は?
「うーん、わかったようなわからないような。まあ、とりあえずいっか」
進吾くんはまだ納得しきっていないようだけれども、質問をふっかけてきた。
「明日香さんばかりが良い気分になってるんで、俺も何か質問したいっす。そうだなあ・・・今の関連で」
“一日何時間勉強すればいいですか?”
あー、これも質問のフレームワーク自体が間違っている質問だ。うーん、コーヒー一杯じゃ足りないかもなあ・・・
◇ぱうぜセンセのメモ◇研究者で有り続けることの意味
うーん、今回の話は大上段過ぎて自分でも難しいぞ。ほとんどブーメランだ。刺さりすぎていて痛い。ただ、こうやって素朴な疑問に立ち返るところから、新しい研究のアイデアも生まれてくるんだよね。さて、新しい論文の構成を練らなきゃ・・・。ああ、あと、進吾くんは法律の実務家のイメージがちょっとゆがんでいるな。「弁護士だって、日々新しい問題にむきあっているんだ」ってことを、友人の弁護士から語ってもらわないとなあ。
編集後記
第二回から長くなりました、ぱうぜ(@kfpause)です。今回は、この企画を起こすきっかけになった質問に向き合ってみました。難しすぎて現時点での回答、という感じですが、実際に学生に説明した内容をほぼそのまま載せています。うーん、本当に難しい。ご意見お待ちしています。
また、ぱうぜセンセのコメントボックスでは「バーチャルコメントボックス」を設けております。Twitterで #ashitano をつけて投稿していただければ適宜拾いますので、どしどしお寄せください。いただいた全ての質問にお答えできるか分かりませんが、とりあえず試してみることにします。似たような仕組みとして「ビストロ・アシタノ」もありますが、ビストロはアシタノメンバーみんなで答える形式になります。どうぞ両方ご愛顧ください。
2013年春から大学教員になった駆け出しの研究者。専門は行政法。
個人ブログとして対話をテーマとした「カフェパウゼをあなたと」を運営中。
http://kaffeepause-mit-ihnen.hatenablog.jp/