こんにちは。「単純作業に心を込めて」の彩郎です。連載「普通の個人が、ブログのある毎日を送り続ける、ということ」を続けます。
- 第1回連載を始めるにあたって
- 第2回モデルケースとして描いていきたい個人の歩み
- 第3回平和な閉塞感は、解消すべき課題なのか?
- 第4回平和な閉塞感につながる構造的な問題
- 第5回ブログは、私に、何を与えてくれたのか?
- 第6回ブログを長く続けるためのコツ
- 第7回言いたいことは、終わらない。
- 番外編ブログで、自由なアウトライン・プロセッシングのための環境を整える
第8回となる今回のテーマは、「ひとつの「言いたいこと」をブログ記事として書き上げて公開するプロセスの中から、たくさんの「言いたいこと」を発見できるというメカニズム」です。
最初にこのメカニズムを検討し、次に、自分の日常の中にこんなメカニズムを機能させることが、普通の個人にとってどんな意義を持つのか、考えてみます。
【ひとつの「言いたいこと」をブログ記事として書き上げて公開するプロセスの中から、たくさんの「言いたいこと」を発見できるというメカニズム】
[メカニズムの源泉となる2つの要素]
前回書いた「言いたいことは、終わらない。」とは、現象としては、
- はじめに、ひとつの「言いたいこと」がある。
- そのひとつの「言いたいこと」を、ブログ記事として書き上げようとする。
- すると、はじめにあったひとつの「言いたいこと」をブログ記事として書き上げて公開するまでのプロセスから、たくさんの「言いたいこと」が生まれる。
- だから、いつまでたっても、「言いたいこと」は、終わらない。
というものです。
この現象のポイントは、ひとつの「言いたいこと」をブログ記事として書き上げて公開するプロセスから、たくさんの「言いたいこと」が生まれる、というメカニズムにあります。
では、なぜ、こんなメカニズムが機能するのでしょうか。大きく分けて、2つの理由があります。
「論理を組み立てる」と「文章表現を整える」
ひとつめは、「文章を書き上げる」という行為自体が持つ性質です。
あるときふと思いついた何かについて、「私はこれを言いたい。」と思い、その「言いたいこと」を文章として書き上げることにしたとして、このためには、どんなことが必要でしょうか。
まず、論理を組み立てる必要があります。論理が通っていなければ、ひとつの文章になりません。
次に、文章表現として整えることも大切です。論理構造だけを箇条書きで並べたのでは、文章にはなりません。文章のかたちに書き上げるには、接続詞や語尾など、文章表現を整える必要があります。
つまり、「言いたいこと」を文章として書き上げるには、
- 論理を組み立てる
- 文章表現を整える
という2つが必要です。
そして、「文章を書き上げる」ために必要不可欠なこの2つは、どちらも、新しい「言いたいこと」を生み出すメカニズムを内包しています。
まず、「論理を組み立てる」には、
- 論理の欠落を埋める
- 論理の重複や余剰を取り除く
- 構成要素を論理的な順序に並べる
などが必要ですが、これらから、新しい「言いたいこと」が生まれます。
論理の欠落を埋めようとすることから関連する「言いたいこと」を思いつき、取り除いた論理の重複や余剰がそのまま新しい「言いたいこと」になり、構成要素の並び順を試行錯誤することからそれまで考えていなかったような「言いたいこと」に気づいたりする、といったことです。
また、「文章表現を整える」には、
- 単語や文の順序を並べ替える
- 接続詞や語尾を整える
- 単語を補ったり置き換えたりする
- 具体例や比喩を追加する
- メタ情報を追加する
- ありうる別意見に対する応答を補足する
- 文章を読み返して、違和感なく流れているか確認する
などが必要ですが、これらからも、新しい「言いたいこと」が生まれます。
たとえば、接続詞や語尾を置き換えるだけでまったく別の論理が現れ、そこに新しい「言いたいこと」が発見されることがあります。また、具体例や比喩を考えることから、その具体例や比喩自体がどんどん膨らんで、それ自体が新たな「言いたいこと」になることもあります。ありうる別意見に対する応答を真面目にやると、それだけで文章の分量は2倍や3倍になるため、その過程で「言いたいこと」が出てきますし、自分が書いた文章を読み返すと、たくさんのところで引っ掛かりを覚えますので、その点を滑らかに流そうとする過程でも、新しい「言いたいこと」が浮かんできます。
親しい人との会話が盛り上がると、話題がどんどん膨らんで、当初の範囲を大きく超えた内容となることがあると思うのですが、文章表現を整えようとする過程で新しい「言いたいこと」が生まれるのも、同じようなメカニズムではないかと思います。
このように、「文章を書き上げる」ということ自体に、新しい「言いたいこと」発見を促すメカニズムが内在されていることが、理由のひとつめです。
「作品」として公開すること
ふたつめは、ブログ記事として公開することです。書き上げた文章をブログ記事として公開することが、新しい「言いたいこと」の発見を促します。
ひとつには、公開したブログ記事に対するフィードバックから、新しい「言いたいこと」が見つかる、ということ、つまり、
- 公開した記事を読んだ方からいただいたコメントに、思考を刺激される
- 関心のあるテーマについてのブログ記事を公開し続けることがセルフブランディングとなり、そのテーマについての情報が集まりやすくなる
といったことです。
でも、これらは、ブログを長く続ければ続けるほど積み重なっていく性質のことなので、短期的には実感しづらい上に、ある程度運任せ・他人任せなところもあります。
だから、ここで強調したいのは、
ブログに「作品」として公開するからこそ、「文章を書き上げる」ことができる
という点です。
「文章を書き上げる」のは、実に面倒で、おまけに忍耐が求められます。ときに、「言いたいこと」を思いついたときの高揚感はどこへやら、書き上げることを投げ出したくなります。
ブログは、ここを少しだけ支えてくれます。書き上げれば「作品」として公開できるからこそ、公開すれば自分以外の誰かに自分の「作品」が届く可能性を感じられるからこそ、どうにかこうにか文章を書き上げることができます。
このように、ブログに「作品」として公開することは、
- ブログに「作品」として公開できるからこそ、「文章を書き上げる」ことができる
- 「文章を書き上げる」からこそ、新しい「言いたいこと」を発見できる
というつながりによって、新しい「言いたいこと」発見のメカニズムを支えています。
[メカニズムを支える仕組み]
さて、こんなメカニズムは、ブログを続けていさえすれば、とりあえずは、機能します。
でも、仕組みを作っていくつかの条件を整えると、もっとうまく機能するように思います。では、どんな仕組みを作り、どんな条件を整えるとよいでしょうか。
●
私自身は、次のような仕組みを作っています。
- ブログ原稿を書く場所
- WorkFlowyで、大量の原稿群を管理する
- 混沌とした全体と、原稿になる秩序ある一部分
- 自分のブログ
- 暫定的な作品群を継続的に公開する場所
- フローを最大化するための治具
- ブログ記事化というボトルネックを解消するハサミスクリプト
「WorkFlowy」と「自分のブログ」と「ハサミスクリプト」(物事を考え続けるための、奇跡のような組み合わせについて)
この仕組みは、私にとって、現にとてもうまく機能しています。
なぜかと考えてみると、ここには、
- 自分の中に「言いたいこと」を発見したら、その「言いたいこと」をひとつの「作品」という形にして、公開することができる。自分のブログがあるから。
- 「言いたいこと」を表現する文章を書き上げるために使う道具は、WorkFlowy。WorkFlowyなら、ひとつの文章を書き上げる過程で生まれた新しい「言いたいこと」のすべてを確実に受け止め、大量の書きかけの文章群全体を管理することができる。
- WorkFlowyで書き上げたブログ記事をブログに投稿するには、HTMLを整える必要がある。従来はここがボトルネックとなってフロー全体が滞っていたけれど、今は、ハサミスクリプトがこのボトルネックを解消してくれた。結果として、フロー全体が大きくなった。
という、3つの存在の相互が相互によい影響を与え合う関係があるためです。
だから私は、WorkFlowyと自分のブログとハサミスクリプトという3つ、少し抽象化して、
- 大量の書きかけの原稿群全体を管理する仕組み
- 暫定的な作品群を制約なく継続的に公開できる場所
- フローのボトルネックを解消するためのツール
という3つの存在が、新しい「言いたいこと」発見のメカニズムをもっとうまく機能させるための条件だと考えています。
[関連情報]
以下、それぞれに関する関連情報です。
- (1) 大量の書きかけの原稿群全体を管理する仕組み
- (2) 暫定的な作品群を制約なく継続的に公開できる場所
- (3) フローのボトルネックを解消するためのツール
- ハサミスクリプト for MarsEdit irodrawEdithion|マロ。|note
- 最強のブログ原稿創造システム「WorkFlowy×ハサミスクリプト」に、画像機能を追加する方法
-
最近の「良い仕事」マロさんのハサミスクリプトですね。彩郎さんの記事公開の律速段階になっていたhtml作成の事務工程(彩郎さんの思考不要な部分)を簡略化させたら記事公開のスピードが劇的に上がった。それぞれの好意的な繋がりがそれぞれの技を発揮してブレイクスルーする瞬間 #WRM感想
— るう@おいしいワイン (@ruu_embo) 2015年2月22日
【日常の中にメカニズムを機能させることの意義】
このように、ブログを使えば、普通の個人であっても、自分の日常の中に、新しい「言いたいこと」発見のメカニズムを機能させることができます。
このことには、どんな意義があるのでしょうか。
[「言いたいこと」を発見できるうれしさ]
何よりも強調したいのは、自分の中に「言いたいこと」を発見できるのは、すごくうれしい、ということです。
「言いたいことは、終わらない。」でも書いたことなので、再掲します。
ひとつの「言いたいこと」をブログ記事にするプロセスで出てくる「言いたいこと」は、自分と無関係な外側からやってくるものではありません。そうではなくて、もともと自分の中にあった何かを「言いたいこと」として発見しているのではないかと思います。
もともと自分の中にあった何かとは、つまりは、これまでの自分の人生です。これまでに読んだ本、これまでに誰かと一緒に過ごした時間、これまでに取り組んできた仕事、これまでに抱えていた悩み。そんなこれまでの人生があって、だから今、自分の中に、たくさんの「言いたいこと」があります。
そんな「言いたいこと」を発見するのは、西研さんの言葉でいえば、自分の人生をより深く味わえるようになり、自分の人生に対する新しい感受性の回路を開くというようなもので、すごくうれしいことなんじゃないかと感じています。
ひとつの「言いたいこと」をブログ記事の形にしようとすると、たくさんの「言いたいこと」を発見できます。いつまでたっても、言いたいことは、終わりません。これ自体が、すごくうれしいことです。
[「クリエイティブな私」を前提とせずとも、「言いたいこと」が深化する]
もう少し先を考えてみます。
自分の経験を主観的にふり返ってみると、こうして発見された「言いたいこと」は、少しずつ深まってきました。
ブログを始めたばかりで、公開記事数が10個や20個のころは、「いいこと思いついたし、これを言ってみたら、何か面白いことがあるんじゃないか」程度の「言いたいこと」なのですが、ブログを数年間継続し、公開記事数が100個や1000個になったころは、「そうそう、自分はこれを言いたかったんだ!」というように、腹の底から納得できるレベルの「言いたいこと」を、たまには、発見できるようになりました。単に発見できる「言いたいこと」の個数が増えるだけでなく、数の増加と正比例して、「言いたいこと」が少しずつ深化してきたのです。
たぶんこれは、私の能力が上がったから、ではありません。
今、目の前にあるこの「言いたいこと」を、ブログ記事として書き上げようとする。そのプロセスで、新たな「言いたいこと」を発見できる。その新しい「言いたいこと」をまたブログ記事として書き上げようとする。さらに次の新しい「言いたいこと」が生まれる。こんなプロセスを淡々とたどっていくうちに、いつの間にか、少しずつ、「言いたいこと」が深化し、そのうち、「ああ、自分の中に、こんな言いたいことがあったんだ!」というレベルの「言いたいこと」に出会えるまでの深さまで到達する。
この過程は、私の特別な能力を必要としていません。必要なのは、ひとつひとつのブログ記事を書き上げることを続ける根気だけです。
「クリエイティブな私」が前提になっていない、ということもできると思いますが、私はこの点を気に入っています。
古今東西、クリエイティブであることの大切さが叫ばれていますが、私は今も昔も、クリエイティブさにかけては全然自信がなく、「クリエイティブな私」になるための道筋もさっぱり分かりません。ですが、ブログ記事を書き上げ続けることで「言いたいこと」を発見し続けるメカニズムに、「クリエイティブな私」は必要ありません。クリエイティブじゃない私でも、たまには、自分の中に「言いたいこと」を発見してうれしくなり、心の底がちょっと震えるような体験をすることができます。
[「自分をクリエイティブにする仕組み」を日常の中に構築する]
考えてみると、ここにあるのは、「自分をクリエイティブにする仕組み」といえるような何かです。
以前、私は、職業的研究者による考察の深さに感嘆するあまり、研究者が考察を深める仕組みについて、こんなことを書きました。
研究者が考察を深める仕組み:「その時点までの考察をアウトプットして、フィードバックを得る仕組み」
研究者による考察は深いけれど、この深さをもたらしているのは、研究者個人の能力や資質や努力だけではなくて、学会、大学での講義、研究会、雑誌連載など、研究者の毎日に(半ば強制的に)組み込まれている仕組みもあるのではないか、というのが、ここで考えたことです。
この観点でいえば、現代日本は、すばらしいところです。職業的研究者でない普通の個人でも、金銭的コストほぼゼロで、自分の毎日に、「その時点までの考察をアウトプットして、フィードバックを得る仕組み」を組み込むことができます。それが、ブログです。
普通の個人が、自分の毎日に、「その時点までの考察をアウトプットして、フィードバックを得る仕組み」を組み込む
これらの記事を書いたとき、私が念頭に置いていたのは、「考察を深める」とか「アウトプット」とか、いわゆる知的生産です。でも、「言いたいこと」を発見するうれしさにも、この話はまっすぐにつながっています。必ずしもクリエイティブじゃない私でも、自分の深いところに潜んでいた「言いたいこと」を発見できることからすれば、ブログは、ある意味、「自分をクリエイティブにする仕組み」なのです。
●
昔からたまに「私はクリエイティブだろうか?」と自問自答することがありました(お恥ずかしい話です)。
以前は、この自問自答が嫌でした。「私はクリエイティブじゃないよなあ。」と思っていたからです。
でも、今は、そうでもありません。もし、「あなたはクリエイティブですか?」と聞かれたら、私は、胸を張って、「私は全然クリエイティブじゃありません。」と答えます。そして、それに続けて、「でも、私の日常には、「自分をクリエイティブにする仕組み」が組み込まれてます。だから、クリエイティブじゃない私でも、ちょっとクリエイティブになって、ちょっとした価値を継続的に生み出したり、自分の中にすてきなものを発見して心震えたりすることができているような気がします。これは、私自身がクリエイティブであることよりも、もっとずっと広がりのあることなんじゃないかとすら感じています。」みたいなことを答えようと思ってます(まあ、そんなことを聞かれる機会はないでしょうけれども)。
—編集後記—
今回は、「言いたいことは、終わらない」をもたらすメカニズムと、それを支える仕組みのことを考え、最終的に、ブログによって日常の中に「自分をクリエイティブにする仕組み」を構築することの意義へとたどり着きました。
今回は、検討を、自分ひとりで完結できる範囲に区切りました。でも、実際は、ブログを続けるにあたっては、自分以外のたくさんの方々との関係が、すごく大きな意味を持っています。
次回は、主にTwitterを念頭に置いて、ブログを起点にSNS上で広がる人間関係のことを考えます。Twitterにおける「彩郎」は、私にとっての大切な「分人」なのですが、この「彩郎」がどんなふうに生まれ、そしてどのように育ってきたのか、この3年半くらいの歩みをふり返ってみます。
2週間後にまたお目にかかれれば、とてもうれしいです。
共働き家庭のワーキングパパ。子育てと読書とブログに没頭しつつ、持続可能な毎日を送り続けることを大切にしています。
2012年3月、ブログ「単純作業に心を込めて」を始めました。WorkFlowyを中心に、毎日に彩りを加える方法を試行錯誤してる経過を報告しています。
2016年1月、『クラウド時代の思考ツールWorkFlowy入門』という本を書きました。WorkFlowyと個人の知的生産がテーマです。
BLOG:単純作業に心を込めて
Twitter:@irodraw